「方舟」を読んで
<著者> 夕木 春央
色々な理由で苦しくなる小説だった。この物語の設定である地下建築に閉じ込められた息苦しさ、建物の浸水が着実に進んでいく溺死への切迫感、そして誰かの命を犠牲にする選別を余儀なくされた絶望。
もし自分だったらどうするだろうか。どうしても感情移入してしまうけれど、納得のいく“正解”なんてあり得ない。だから僕も、殺人犯が犠牲になればいいと考えるのではないだろうか。
少し前までの時代では、命の繋がりや犠牲をもっと身近に感じる機会が多かったはずで、例えば戦時中、そうした経験を抱えながら生きた人も少なくなかった。それでも、一生の心の傷を抱えたかった人なんて誰ひとりいない。生きててよかったと思える度に、そう思えるはずだった人への遺恨が心を抉る。
もしこの状況になったら、僕は生き残れる自信はない。そして、こういうとき生き残れるのは“生きたい”と最も強く思える人間で、その心の在り方は、善悪ではなく、最も純粋なのだろう。
最も起こって欲しくない極限状態の中で、人はどんな選択をするか。読書体験だからこそ、無傷で得られた経験に色々なヒントがあった。
個人的に面白い視点だと感じた部分の一つがあとがき。有栖川さんが言う「‥‥ここまでコケにされた探偵は空前」と言うのは、まさに言い得て妙だ。
“正確な情報“を得ることの重要性。たとえば孫子の兵法にもある教訓であり、いかに相手に正確な情報を与えないか、欺けるかで、戦の大方が決まったという。純粋な兵力差を覆してしまうことを理解し、そうした部分で争いが繰り広げられていたことに衝撃を受けた。この「方舟」からも得られる教訓でもあり、これは現代を生きる僕たちにとっても、常に心がけておくべき認識だと改めて感じた。